那智山青岸渡寺の由来
霊域熊野に偉容を誇る観音霊場西国第一番札所として、あまねく知られる那智山青岸渡寺。縁起によるとその開祖は仁徳天皇の頃(4世紀)インド天竺の僧、裸形上人が那智大滝で修業を積んだ暁に、その滝壺で小さな小さな観世音菩薩を感得し、そこに草庵を結んで安置したのが始まりとされています。

その後推古天皇の頃(6世紀)、大和の生仏上人が前述の話を聞いて一丈(4m)の如意輪観世音菩薩を刻み、裸形上人が感得した観世音菩薩を胸沸に納め、勅願所として正式に裸形上人像(Statue of Priest Ragyo Shonin)本堂が建立されました。その後、役の行者が修験の根本道場と仰ぎ難行苦行を納めるなど、山岳仏教としての寺構も整えられて次第に隆盛を極め、伝教大師、弘法大師、智証大師などの高僧も相次ぎ来山されました。

その後、平安中期から鎌倉時代には、熊野三山の信仰が最盛期を迎え、引きも切らない参詣の人々は俗に「蟻の熊野詣」とまでいわれました。法皇、上皇も多数御幸されましたが、中でも永延二年(988)に御幸された花山法皇はこの那智霊山に深く感銘を受け、ここを西国第一番札所と定めたと伝えられています。

しかし栄華を誇った寺運も、はるかな時の流れのなかで罹災、再建を繰り返すうち、明治の神仏分離令の後には極度に荒廃してしまいましたが、この霊地に参詣した天台宗の僧、悲羅井純孝師が再興に務め、今日の隆盛の基盤を作り、青岸渡寺と寺号を呼称しました。

那智山青岸渡寺の文化財
現在の本堂は、信長による焼き打ちの後、天正18年(1590)秀吉によって再建された桃山時代の建築です。本堂東隣の宝篋印塔や宝物殿(滝宝殿)に安置してある白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、金剛界三昧邪形などとともに国の重要文化財に指定されています。

これらの仏像は、大正7年(1918)に那智大滝参道横の経塚から発掘されたもので、他に仏具、経筒、鏡など多数を出土し、歴史の古さを物語ります。また本堂と那智大滝のほぼ中央に建つ三重塔は、昭和47年に300年ぶりに再建されたもので高さ25m。ここからの那智の滝の眺めは周囲にさえぎるものがなく、まさに絶景の一語に尽きます。