1999年、観光で熊野那智大社を訪れたユネスコ最高顧問で世界的な植物学者でもあるバーン・フォン・ドロステ氏は、大門坂を歩いた後、境内から那智の原始林を遠望しました。

ここは、博物学者・南方熊楠を虜にしてやまなかった動植物の楽園で、今国の天然記念物として32ヘクタールが保護されています。

ドロステ氏は「おそらく、この森には、紀伊半島で最も大きい巨木が何本もある。那智の滝とこの原始林だけで、世界の宝と言ってもいいであろう」とその美しさに胸を打たれて言ったそうです。

そして同時に、彼は、那智の滝から落ちる三筋の水が痩せているのにも、にわかに気づいたそうです。実は、この水源域のほとんどが杉、檜の植林なのです。黄泉国と言われてきた熊野の森は、神の森として大切に保護されてきたはずなのに、いつのまにかこの聖域に人間が入り、崩土と草木の生えない場所にしてしまったのです。

那智の滝や、二の滝の絶壁にへばり着くようにしてしぶとく生きている天然杉は、人間の業に対抗しようとして、照葉樹との競争から逃れ、人間の立ち入れない領域に避難しているようです。彼らがその名の通り「原始林」に悠久の年輪を刻める時がはたして来るのでしょうか?

一方、熊野川はどうでしょうか?日本一の降雨量を誇る大台ヶ原を水源としながら、どういう訳か水は痩せ細っています。平安人が感動したような大河の趣は、今はしのぶすべもありません。

感性豊かであった古代中世の人々は、この熊野という地に、その信仰と哲学を元に世界にも誇れる風土と文化を残してくれました。いったいいつどこで変わってしまったのでしょうか。古代日本の面影を多く残すとさえいわれた熊野ですが、今、そのかけがえのない遺産を失くしてしまっているようです。

私たちは、熊野の森を取り戻すにはどうすればよいのかを考えていきたいと思っています。