神武東征の時に熊野から大和に導いたといわれる八咫烏は、古事記では「大烏」、「日本書紀」では「頭八咫烏」と表記されている。「八咫烏」の意味はそもそも何なのだろうか?実は諸説あってどれが真実なのかいまだにはっきりとはしていないようだ。

「広辞苑」によると、「ヤマはヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位」とある。『釈日本紀』では咫とは一手の広さの4寸(約12㎝)で、両手を合わせて8寸、したがって八咫は咫が8つある64寸あることになる。2メートル余りもある大きな烏ということになる。

『日本書紀通證』には、「・・・(略)頭八咫謂頭ノ長八咫其大可知故古事記序謂之大烏導於吉野(略)・・・」と記されており、頭の長さを八咫と考えているようだ。

江戸時代の国学者・本居宣長が記した「古事記伝」によると、古事記の序文で「大烏」と書かれているものを「八咫烏」と推敲したようだ。

八咫烏。名義八頭烏にて。頭の八つある由なり。八咫ハ借り字なること。上巻八咫鏡の処(中略)に委く云るが如し。八頭なりしハ。彼ノ八俣蛇の八頭八尾ありし類なり。八は必ずしも七八の八ならずとも。幾箇もあるをもいふべし。

頭八つの大烏と解した。

仏教民族学者の五来重も「あた」は「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」などの古語で、「あだ」と同じく「あたし野」「あたしが原」「あたし身」など、「むなしい」「はかない」などの意で、不吉な死に関係する烏ということになる、と述べている。民俗学者の折口信夫も、「一体、八咫烏の名は何を意味しているのか、実はよく私には訣らない」と、その解釈の困難性を嘆いている。

八咫烏は神武軍の先導だけでなく、反逆者の「兄宇迦斯」(古事記)や「兄磯城」(日本書紀)を恭順させるための使者としての役割も担ったが、弓矢で追い返されていることから、本来の使命は神武軍の先導にあると思われる。

『伊勢国風土記』には、神武東征を導いた「金烏」として登場する。

伊勢の国の風土記に云はく、夫れ伊勢の国は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の十二世の孫、天日別命(あめのひわけのみこと)の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の国の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、莬田の下県に到りき。

ここでは、伊勢の太陽信仰と結びついた金色の烏が神武東征の八咫烏と同一視されている。延長5年(927)に編纂された『延喜式』「治部省」の条では、「赤烏。三足烏。日之精也」「白烏。太陽之精也」とあり、太陽信仰を象徴する瑞鳥と考えられていたことがわかる。めでたい三足烏が、神武東征の「頭八咫烏」に比定されたのは、弘仁14年(823)の「淳和天皇御即位記」に次いで、10世紀前半に源順が編纂した百科全書『倭名類聚鈔』が早い例である。

平安中期までには、三足烏=八咫烏ののイメージが定着したようである。中国をルーツとする大陸の日中三足烏の崇拝が「日本書紀」の頭八咫烏と結びついたのである。初代天皇を導いた八咫烏は瑞鳥ー朝廷の太陽信仰(天照大神)の象徴としてその後も崇められていくことになった。

(出典:山本殖生著「熊野 八咫烏」)