安堵山(あんどさん)の麓にあった兵生(ひょうぜ)っていう村での話や。谷間に小さな家々が散らばるところでな、村の衆は助け合いながらつつましく暮らしてた。

ある日のこと、山にこだまするほどの産声をあげながら、大きな男の子が産まれた。ひらいた口には歯がそろい、黒々した髪の毛が首筋まで伸びておったそうや。
「松若」と名付けられたその子は、ひと月もすると太い足をふんばって歩き始めた。それから数年、日ごとにたくましく育っていくが、誰もが驚くほどの大めし喰らい。家族の分まですっかり喰らってしまう松若に、親きょうだいはほとほと困り果てたんやと。

「わしが家におったら、みなが飢えてしまう」

松若は、そう思うたんやな。
だんだんと一人で山へこもるようになって、十歳になる頃には夜になっても帰らんようになった。村の男らは時おり、山の奥で獣を追いかける松若を見かけたそうや。裸の体はいっそう大きく育って、木々の間を走り抜けて巨岩を軽々と飛び越えていった。男らは目を見張って「ありゃ、松若じゃ」「鬼になったんじゃ」と言い合ったんやと。

ある夜、兵生に盗賊が押し寄せてきた。集団で荒しまわられて、村の衆は逃げまどうしかない。必死の思いで安堵山へ逃げ込んだ数人が、「松若よぉー、松若よぉー」とおがった(叫んだ)。すると「うおーい」という低い声とともに突風が吹いて、獣のような何かが転がるように走り込んできた。

松若や。

その大きな体は一瞬にして森を走り抜け、里にたどり着くと盗賊を次々となぎ倒した。松ヤニで塗り固められた松若の巨体は、刀さえはじき飛ばしたんや。

おかげで村は、難を逃れることができた。
村の衆はそりゃ喜んだ。松若に食わしちゃろと、米を持ち寄って餅をついてやったそうや。ほいたら松若は「餅はいらんさか、塩をくれよ。わしも塩がなけりゃ生きられんのや」と言うた。そこで、さっそく塩をかき集めて持たしてやると、茶色く節くれだった両手で大事そうに受け取った。

そして「なんぞあったら、安堵山でわしの名をおがれよ。助けにくるさか」って言うと、塩の袋を肩に担いで山に帰っていった。その背中が見えなくなるまで、村の衆はじっと見送っていたんやて。

それから、松若の姿を見た者はないんやが。
ただ、しんと冷えた冬の夜にな「うぉお、うぉお」っていう悲しそうな声が、山の方から響いてくることがあったそうや。
そんな時、すっかり年老いてしもた松若の母親は、「松若よぉ、松若よぉ」って家の前で声をふりしぼって呼んでたんやて。

(出典:「みちとおと」~熊野の伝説より)

イラスト:ひろのみずえ
(採話地/和歌山県田辺市中辺路町温川)
『熊野・中辺路の民話』1980年 民話と文学の会 より